バンコク、ドバイ、鬱

ずっと溜めてたことを書きます。まさか自分が鬱病になるなんて。

伸びた髪と646

髪を伸ばしたのは小学生以来だ。


文京区の屋敷町で育ち、中高と私立で過ごし、兄弟人数分のお手伝いを雇っていた、という環境で育った母親にとっては、三多摩地区の環境が昔でいう差別用語にあたる川向こうの生活は屈辱だったらしい。


いまでこそ、小学生の男の子のロングヘアーは珍しくなかったけれど、1973年生まれの中で肩まで届く長い髪をしているのは全校中で僕一人だった。

所謂スポーツ刈りと言われる、大多数の当時の小学生がしていた髪型は、母にとっては、田舎の象徴らしく、髪を短くすることは許されなかった。

今にして思えば、顔立ちも整った母は、いつも着飾っていて、良くも悪くも他の母親とは違っていた。

身だしなみに隙がまるでなかった。


中学に入り、校則通りに髪を耳まで出すまで短く切ったものの、それでも当時母がファンだった坂本龍一のような髪型をさせられた。

ヤンキー全盛の時代、相変わらず学校では浮いた存在だった。


10代の自我は、暴れて押さえつけることが難しい。

中学に入り、初めて学年による序列があることを知った。

学ランのカラーを外していいのは2年生から、先輩が通ったら見えなくなるまで挨拶。

こんな奇妙なルールが校則とは別に存在し、何故か皆それに縛られた。

寧ろ大人社会の通過儀礼的に喜んで受け入れる同級生も沢山いた。


気持ち悪い。


お約束の先輩の呼び出しは、僕は一切従わなかった。

根性が座るとか以前に殴られるのが単に嫌だった。

家では、母親から髪を持って引きずり回されたり、日常的に暴力があったので、学校生活の中で起きる力の見せ合いには耐えられなかった。

だから、ひたすら逃げた。

殴り返す勇気があれば、学校内で武勇伝にもなっただろうけど、僕にその勇気はなかった。


Boowy全盛の時代、僕は全く別の方向を向いていた。

小学校の音楽の教師がLoudnessのファンで、いつも放課後の音楽室で先生は、フルボリュームでアルバムを聴かせてくれた。

腹に響くドラムの音、歪んでいて、そしてどうやって弾いてるのか想像も出来ないギターに興奮した。


中学に入り、アメリカ全土で起きたハードロックのムーブメントは日本まで押し寄せ、中3の夏に代々木体育館でWhite snakeのライブを見に行った。大ヒットしたサーペンスアルバスを引っさげてのライブだった。

デイビッドカバーデール、ビビアンキャンベル、エイドリアンヴァンデンバーグ、トミーアルドリッヂ、ルディーサーゾという布陣はゴージャスな見た目だけでなく、演奏も音の塊感が凄く、ライブの翌2日間は耳鳴りが止まなかった。

ハードロックの虜になった。


高校に入ると、LAメタルと呼ばれた一大ムーブメントが巻きおこった。

中心には80年代初期から活動をしていたMotley crue、Rattなどがいたが、僕はギターの音が誰にも似ておらず、攻撃的で、なのに歌は情緒感たっぷりのDokkenにハマった。

メジャー契約の日、配達途中のワインをその場で開けて祝ったという話も、どこか作られたか感がある日本の音楽業界の話と違い、目を閉じて彼らの第一歩を想像し、妙に興奮した。


僕の髪は中学を境にウェーブ掛かった髪に変化した。

高校を辞め、伸びた髪はウェーブのせいもあり、インパクト十分だった。


この前後から渋カジというアメリカンブランドを取り込んだストリートファッションがブームとなった。


ガンズやモトリーといったストリートに根差した音楽は渋カジとも相性が良く、スケボー、バイク、色んな要素を取り込みながら流行は拡大していった。


当時の僕は、big Eと呼ばれたリーバイスの古着には手を出さず、646と呼ばれるベルボトムに夢中になった。

髪を伸ばし、646にレッドウィングのエンジニアブーツ。

今では考えられないけれど、アメリカのブランドがmade in USAだった時代だ。レッドウィングのブーツは高校生には高過ぎる品物だったけど、アルバイトで貯めたお金を持って、明治通りの店で買った。


こうして、見た目だけはストリートな格好に僕はなった。

高校時代の面影は完全に消えていた。