バンコク、ドバイ、鬱

ずっと溜めてたことを書きます。まさか自分が鬱病になるなんて。

家に帰らない

最近、神待ちという言葉があることを知った。

ネットの出会い系の掲示板やLINEを使い、家出した女の子がその日の寝場所を確保する=神を探すらしい。


つい何年か前にサービスが終了したNTTの伝言ダイヤルみたいなものだろうか。

当時は手軽なナンパや売りを求める男女で入り乱れており、声と電話番号を頼りに相手を手繰り寄せ、釣った。


僕も一度使ったことがある。

大検予備校が始まる9月まで何もすることがなくなり、たまたま雑誌で見た伝言ダイヤルの記事を見て、電話を描けたんだ。自分が何歳なのか、今どんな相手を探してるか?

兎に角寂しくて同年代なら男でも女でも良かった。

果たして1時間後、驚く程の返信があった。歳下に興味があるという23の大学生、同じ様に学校に行っておらず、毎日時間を持て余してるという女の子。


僕は皆んなと連絡を取り合い、歌舞伎町にあるカラオケ屋で顔も見たこともない、声だけの相手達と会った。

やたらとモノマネが上手い、顔立ちの綺麗な19の男、16歳特有の張りのある肌をした目の大きい女の子、明らかに場違いなヤンキー上がりの17歳の男、誰かがカラオケ部屋のドアを開ける度に皆緊張し、ぎこちない挨拶をした。

カラオケは2時間程、モノマネ男は目の大きな女の子をどうにかホテルに連れ込もうと必死に口説いていたけれど、彼女は僕の横に座り、耳元で怖いから一緒に帰ろう、と呟き、トイレと一言席をたった。

僕はタバコを買ってくるといい、間を空けて店の外に出た。

僕がもう少しずる賢ければ、そこから彼女をどこかに連れて行くことだって可能だったけれど、たわいもない話をしながら新宿の駅まで歩いた。帰り際、また電話してもいい?彼女は自分の番号を書いた紙をくれ、その日はお互いに帰った。

その後も何度となく電話のやり取りをしたけれど、お互い年齢を重ね、そのうち連絡を取らなくなった。

それでも、僕はただ誰かに話をしたくて、高校に行かない間の時間を誰かと共有したくて、彼女との電話がただ嬉しかった。

ネットもなく、AVすら借りるの苦労する、時代がまだ健全だったのかもしれない。


それでも17歳になったその年には、僕はビルの屋上、銀座線から東横フードセンターに降りる階段の踊り場、ホテル、様々な場所で女の子達と関係を持つようになった。

彼女だった子もいれば、なんとなく酔った勢いで寝た友達もいる。

僕らは神なんて待つ必要はなかった。寝床は自分達で探したし、30過ぎの男が高校生を金で釣るような、汚らしさはまるでなかった。

ただの17歳だった。

お互い唯一の繋がりを感じるのが性行為と一点に集約していた。

どんなに話しても、見つめあっても二人で迎える絶頂感は麻薬そのものだった。

行為を終えると抱き合い、深い眠りについた。場所の不適切さや、汚さは、17歳という若さがそれをあまり余る程に補ってくれた。

夜が明け、親が仕事に出る時間に僕は家に帰り、シャワーを浴びた。

1週間帰らなくても、あれだけ口煩かった母親は何も言わなくなっていた。



不純性行為

大検予備校の朝は9時から始まる。

普通の高校生活と変わらない。

違うのは自分で授業を選択し、授業を受け、夏にやってくる大検の試験に自らを投じないといけないことだ。行く行かないは本人に任されている。


僕は最初の授業に出ただけで、後はひたすらタバコとお酒にのめり込んだ。予備校の目の前には、朝10時になると店開する酒屋があった。

店員は長髪でいつもスケートボードに乗って通勤してきた。

名前も知らないこの店員を僕らはダイちゃんと呼んでいた。

慣れているのかダイちゃんは、何も言わずに酒を買わせてくれた。


11時を廻る頃には道端でムラサキ色の透明な液体を吐く仲間がいた。

皆、味なんか分からないで、ひたすらアルコールの強さだけで、買うものを決めていた。


授業に出ずに代々木の道端で酔っ払う10代の集団。

1年分の授業料を払ってくれていた親には申し訳無かったけれど、どこかで崩れていく自分に酔っていた。


僕のいたグループは常に10人程いて、日が経つと共にその数は増えていった。

女の子は大体4人は必ずいて、誰かがいつも付きあってた。


夜になるとビルの屋上に忍び込み、朝まで飲み明かす。

女の子がいれば当然のごとく、酔った勢いと夜の雰囲気に飲まれ、キスをし、そこからセックスになだれ込んだ。

女の子は抵抗するどころか、寧ろ積極的にする事を好んだ。

多分、残業中のサラリーマンには丸見えだったと思う。

でも僕らは見せ付けるように、ビルの屋上で何回も抱きあった。

アルコール、タバコ、女の子とのセックス。

10代の普通の高校生が憧れるアイテムを僕らは、当たり前のように毎日手に入れた。

馬鹿は馬鹿

当時まだアルバイト雑誌が電話帳の半分くらいの厚さがあり、簡単に金は手に入った。

フリーターなんて言葉がとうじょうしたのも多分この頃だ。


 大検の予備校には色んな生徒がいた。不登校児、自ら高校に見切りをつけて大学を目指す者、親が無理矢理、高校の代わりに、と通わさせらてる者。事情はそれぞれ、年齢は下は16から上は20過ぎと様々だった。


女の子達の大半はどこか派手で大人びていて、僕を内心ドキドキさせた。高校には居なかったタイプの集団だった。


僕がどこのグループに居たか。

簡単だった。

入学早々見た目で決まってしまった。意識はしていなかったけど、僕の格好は渋谷の街によく馴染んだ。

朝は不似合いで日が落ちると共に街の色に映える様に目立つ。

頭の良い不良。

チームの成り立ちは有名私立校の遊び仲間だったのにいつの間にか拡大センター街のアイコンになったけれど、僕は取り敢えず見た目だけは、立派に年季の入ったチーマーだった。顔、体格、身長、全てがプラスに働いた。

社会的価値においては意味がないのに10代においては、存在を示す有効なアイテムだった。


でも僕は特に頭の良い学校の出でもなくて、周りにいた慶応の幼稚舎出身の奴らとは違った。

馬鹿は馬鹿。

ただ街にいるだけの僕は、身に付けるブランドなんて何もなかった。

高校中退。酷くバツの悪い身分だけが僕の全てだった。


新宿、代々木、渋谷まで

朝の新宿はいつだって通勤客で混み合う。25年前だって変わらない。

変わったのは自分が働く大人になり、当時感じられなかったことが、急に身近になったり、ニュースに出てくる冤罪の痴漢事件を気にして、車内で不自然な位に両手を挙げるようになったことだろうか。


17の僕は、朝になると中央線から新宿まで出て、ルミネ口から代ゼミの大検の校舎を目指して歩いた。

本当は代々木までの定期を持っていたし、歩く距離は倍以上の時間だったけれど、通勤客の流れに逆らって歩く自分に少し酔っていた。

もう高校生でない自分、長い髪に古着とデッドストックの646にエンジニアブーツ。僕にとってはこれが制服の代わりで高校生で無くなってしまった自分を光り輝かせる為の唯一の手段だった。


実際、通勤客は面白いように道を空けてくれた。

今のサラリーマンになった僕がするように、皆、無用なトラブルは避けたかったんだと思う。

10代の自意識過剰な感覚は時に自分に錯覚を起こさせる。

僕は長い髪をかき上げながら、通勤客の波に敢えて割って入っていった。

今日から僕は大検生になった。

でも学生でもない。

不安定な立場に不思議な高揚感を感じながら、予備校の門をくぐった。

高校を辞めるということ

高校を辞めるのは簡単だ。

退学届、受理。実に事務的で簡単な作業が淡々と進む。

少子化時代の今なら、教師も留まれと、サラリーマン根性で止めに掛かったかもしれない。

私立の教師なんて、所詮サラリーマンと一緒だ。

首が繋がるとなれば、生活の糧である生徒を簡単には辞めさせる訳がない。

でも、僕はあっさり辞めた。

高校2年の7月。

中間試験で皆が教科書やノートと睨み合っているその月に、高校生から脱落した。






伸びた髪と646

髪を伸ばしたのは小学生以来だ。


文京区の屋敷町で育ち、中高と私立で過ごし、兄弟人数分のお手伝いを雇っていた、という環境で育った母親にとっては、三多摩地区の環境が昔でいう差別用語にあたる川向こうの生活は屈辱だったらしい。


いまでこそ、小学生の男の子のロングヘアーは珍しくなかったけれど、1973年生まれの中で肩まで届く長い髪をしているのは全校中で僕一人だった。

所謂スポーツ刈りと言われる、大多数の当時の小学生がしていた髪型は、母にとっては、田舎の象徴らしく、髪を短くすることは許されなかった。

今にして思えば、顔立ちも整った母は、いつも着飾っていて、良くも悪くも他の母親とは違っていた。

身だしなみに隙がまるでなかった。


中学に入り、校則通りに髪を耳まで出すまで短く切ったものの、それでも当時母がファンだった坂本龍一のような髪型をさせられた。

ヤンキー全盛の時代、相変わらず学校では浮いた存在だった。


10代の自我は、暴れて押さえつけることが難しい。

中学に入り、初めて学年による序列があることを知った。

学ランのカラーを外していいのは2年生から、先輩が通ったら見えなくなるまで挨拶。

こんな奇妙なルールが校則とは別に存在し、何故か皆それに縛られた。

寧ろ大人社会の通過儀礼的に喜んで受け入れる同級生も沢山いた。


気持ち悪い。


お約束の先輩の呼び出しは、僕は一切従わなかった。

根性が座るとか以前に殴られるのが単に嫌だった。

家では、母親から髪を持って引きずり回されたり、日常的に暴力があったので、学校生活の中で起きる力の見せ合いには耐えられなかった。

だから、ひたすら逃げた。

殴り返す勇気があれば、学校内で武勇伝にもなっただろうけど、僕にその勇気はなかった。


Boowy全盛の時代、僕は全く別の方向を向いていた。

小学校の音楽の教師がLoudnessのファンで、いつも放課後の音楽室で先生は、フルボリュームでアルバムを聴かせてくれた。

腹に響くドラムの音、歪んでいて、そしてどうやって弾いてるのか想像も出来ないギターに興奮した。


中学に入り、アメリカ全土で起きたハードロックのムーブメントは日本まで押し寄せ、中3の夏に代々木体育館でWhite snakeのライブを見に行った。大ヒットしたサーペンスアルバスを引っさげてのライブだった。

デイビッドカバーデール、ビビアンキャンベル、エイドリアンヴァンデンバーグ、トミーアルドリッヂ、ルディーサーゾという布陣はゴージャスな見た目だけでなく、演奏も音の塊感が凄く、ライブの翌2日間は耳鳴りが止まなかった。

ハードロックの虜になった。


高校に入ると、LAメタルと呼ばれた一大ムーブメントが巻きおこった。

中心には80年代初期から活動をしていたMotley crue、Rattなどがいたが、僕はギターの音が誰にも似ておらず、攻撃的で、なのに歌は情緒感たっぷりのDokkenにハマった。

メジャー契約の日、配達途中のワインをその場で開けて祝ったという話も、どこか作られたか感がある日本の音楽業界の話と違い、目を閉じて彼らの第一歩を想像し、妙に興奮した。


僕の髪は中学を境にウェーブ掛かった髪に変化した。

高校を辞め、伸びた髪はウェーブのせいもあり、インパクト十分だった。


この前後から渋カジというアメリカンブランドを取り込んだストリートファッションがブームとなった。


ガンズやモトリーといったストリートに根差した音楽は渋カジとも相性が良く、スケボー、バイク、色んな要素を取り込みながら流行は拡大していった。


当時の僕は、big Eと呼ばれたリーバイスの古着には手を出さず、646と呼ばれるベルボトムに夢中になった。

髪を伸ばし、646にレッドウィングのエンジニアブーツ。

今では考えられないけれど、アメリカのブランドがmade in USAだった時代だ。レッドウィングのブーツは高校生には高過ぎる品物だったけど、アルバイトで貯めたお金を持って、明治通りの店で買った。


こうして、見た目だけはストリートな格好に僕はなった。

高校時代の面影は完全に消えていた。






大人になる前の誰かに。

16歳。

毎朝起きて学校に通う。勉強にクラブ活動。

そんなことを僕は17歳になる前の夏に全てなくした。

何十年か前の7月に高校を中退した。

父親の運転する車には助手席に座る母親、そして後席には僕が

座っていた。

中退届けを出しにいくのに制服を来ていく必要があったのかは今考えてみるとよく解らない。

でも僕は着慣れた学校の白いワイシャツにネクタイを締め、車のドアを開けて乗り込んだ。

高校までの道のり、何かを喋った記憶はない。

 

寧ろ覚えているのは、中退当日のことより高校入学が決まった時に母親から言われた「その制服を着て近所を歩くな、家の恥だ」、この一言だけ。

 

高校に向かう車の中でただひたすら窓から見える景色を見ていた。

退学届けを出したその瞬間から僕は高校生という社会的な身分を失った。

担任の先生に挨拶をし、僕はただの16歳になった。

車の帰り道、イヤホンをしてdokkenのkiss of deathを何度もリピートして聴いた。

ジョージリンチのヒリヒリとしたギターの音が鼓膜に突き刺さり、何度もテープを巻き戻しては彼のギターソロをボリューム目一杯にした。

dokkenとしては解散前の最後のアルバムだった。

ボーカルのdon dokkenとギターのジョージリンチの根本的な性格の不一致が原因だったけれど、その負のパワーが却ってギターの演奏に異常なまでの緊張感を与え、皮肉なことにビルボードチャートの順位をどんどん押し上げた。

ジョージリンチは僕のアイドルであり、神様だった。

public enemyなんかのラップを聴いている同級生も居たけれど、僕にはハードロックが全てだった。

ギターの歪んだ音とドラムのツーバスの音圧が心地良くて、音楽が身体ごと後ろから押し出してくれた。

 

7月はやることがなかった。学校に行かない代わりに、10時に店を開く近所の楽器屋にギターを見に行っては高校生のバイト代では到底買えないメサブギーのアンプで音を鳴らし、昼を過ぎた残りの時間はひたすら部屋に籠り音楽を聴いた。

誰にも会いたくなかった。平日から普段着で歩く自分を見られたくなかった。

幸い母親は僕が小学校に通い始めた頃から会社で働き始めたこともあり、朝7時から夜の8時過ぎまでは家には僕しか居なかった。

両親から責められず、僕が僕でいることの出来る時間だった。

学校に通わなくなっていた4月頃から伸ばしていた髪の毛は9月を過ぎたあたりで肩にまで届く程になっていた。